天台宗 恵日山 宝琳院

本堂 内陣 堂内 堂内 堂内 堂内 曼荼羅 観音霊園
 

宝琳院の歴史

 
当寺の開山はきわめて古く詳(つまび)らかではありませんが、寺伝には和銅4年(711)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の建立とされ、行基菩薩の墓石が祀られています。中世に佐賀のとなった龍造寺家の祈祷(きとう)寺として、龍造寺家と因縁浅からぬ寺院でした。
 降って15世紀末、龍造寺康家公は第3男澄覚を比叡山で修行させ、当寺の住職となし、山号も宝琳坊から恵日山龍造寺宝琳院と改め、その再興を計りました。今からおよそ500年程前のことで、澄覚法印を当寺の第一世としております。
 その後、龍造寺家の衰亡する江戸時代初期に至るまで、豪覚・源覚・円月・澄尊
・澄舜・豪盛・豪円・伯庵といずれも龍造寺家一門が住職となりました。
 貞享2年(1685)に興宗法印によって書かれた宝琳院本縁起に「抑も当寺の住持職、史君の親縁の出家と為る可し・・・・・」とあるように、その格式がばれます。
 龍造寺氏は、次第に勢力を拡充していきました。龍造寺隆信公も、7才から当寺に出家し、円月と称して豪覚法印に師事しておりました。円月は後、村中龍造寺氏の相続が絶えようとしたので、乞われて還俗しました。18才の時です。隆信の代に五州二島の太守となり、薩摩の島津氏・豊後の大友氏と並ぶ九州の三雄と称されました。
 天正12年(1584)島原の沖田畷の戦いで有馬・島津の連合軍に敗れ、隆信は戦死し、その後、実権は鍋島氏に移りました。
 当寺は、龍造寺家の滅亡と共に衰退し、鍋島家より扶助がありましたが、振興には程遠く寺院の維持にも事欠き、やがて明治維新となり、ますます困窮し僅かに寺院の形骸を留めるに過ぎず、荒廃しておりました。
 明治7年(1874)の暴風で本堂その他、建物は全て倒壊し廃寺と化しました。
 爾来、再興の念に燃えていた水堂安福寺の嘉瀬慶範師が、明治27年(1894)に本堂を仮設しました。その後、昭和四年から慶範師の師弟嘉瀬範護師が本格的に再建に取りかかり、歴代の霊廟所及び石柱の山門を整備し、昭和8年に本堂が落成し、昭和12年に庫裏の完成にこぎつけ現在の姿となりました。
 佐賀の歴史をるには龍造寺家なくしては不可能であり、龍造寺家の推移はそのまま宝琳院の歴史です。