平成29年の出水法要は
5月10日から9月5日までです

1300年前から現代へ

佐賀新聞

平成20年6月25日付

街道再発見より

塚崎・唐津往還を歩く会事務局長 馬場良平氏

「水堂さん」の名で知られる水堂安福寺は、白石町の杵島山中腹にあります。1895(明治28)年に鉄道が開通し、北方駅が誕生すると「水堂さん」への参詣客は、北方駅を起点として歩いて往復したといわれています。北方駅を利用した「水堂さん」への参詣道の1つの証として、「道しるべ」が挙げられます。
 北方町の追分から鳴瀬・塩田経由の旧長崎街道の新橋で六角川を渡って左折し、芦原の堂ノ元交差点に向かいます。ここには「向白石水堂道」と刻んだ道しるべが立ち、しばらく東へ進んだ蔵堂では、道路拡幅で往還から姿を消した「水堂道」と刻まれた道しるべが民家で見られます。
 蔵堂から南下して、白石町喜佐木(きさき)から馬洗(もうらい)へと続く道は、圃場整備により取り換えられていますが、所々に昔の面影を残す一間幅の道が残っています。馬洗の法泉寺参道の妻山神社への追分には「向水堂近道」と刻まれた道しるべがあります。
 この場所には戦前までまんじゅう屋があり、水堂さん参詣の人々が一息入れた茶屋でもあったようです。また、近くの民家の庭先には「すこ水堂 北方武雄 道」と指先で方向を示した道しるべが保存されています。これらの道しるべは、いずれも伊万里出身の実業家・松尾良吉氏が社会奉仕として建設した「道しるべ」の一つです。
 馬洗地区には法泉寺や妻山城跡、須古鍋島家の崇敬を受けた妻山神社などみるべき史跡、文化財があります。馬洗から自然石の道しるべが立つ船野、嘉瀬川を経て、山肌に築かれた石段を登ると、観音堂・霊水堂がある「水堂さん」へたどりつきます。
 「水堂さん」の出水法要は旧暦4月15日から90日間にわたり行われ、近郷近在から多くの参詣客が訪れています。「水堂さん」の境内からは白石平野が一望でき、眼下には杵島城跡、須古城跡、小島城跡と連なる眺めは、龍造寺隆信時代の戦国城館に思い巡らす風景でもあります

平成20年1月29日付

厳冬期の生き物学ぶ


佐賀自然史研究会 白石町で観察会
 学校の生物担当教員や愛好家らでつくる佐賀自然史研究会は1月27日、白石町の杵島山などで自然観察会を開いた。子供から大人まで約30人が参加。「厳冬期の生き物たち」をテーマに、カスミサンショウウオの生態や植物などを学んだ。
 杵島山中腹にある水堂安福寺ではカスミサンショウウオを観察。体色や生態、水中になる卵のうの特徴などを確かめた後、同町の有明西小で顕微鏡などを使って詳しく調べた。また、同行程に生える植物の名前の由来なども説明した。
 子供たちは生き物や雑草を実際に触りながら、興味を覚えていた。同研修会の冬季の観察会は初めて。鹿島市の有明海沿岸でカモ類などの野鳥観察会も実施した。

平成10年8月7日

有明抄より

白石町須古の「水堂さん」(安福寺)はお盆を目前ににぎわいを増す。初盆を迎える家族らが仏前に供える霊水を求めてやってくるからだ。ここは白石平野を見下ろす杵島山の中腹にあるわき水が管から流れ出ている小さなお堂は本堂に隣接する。イチョウやクスなどの大木がつくる木陰に、入れ物を手にした順番待ちの列ができる。容器は昔は一升瓶、今は軽くて割れないペットボトルだ平安時代、病気に苦しむ高倉天皇の夢の中に観
音様が現れる。安福寺の霊水をというお告げに、それを取り寄せて飲んだら治ったという由来がある。参拝者は新仏や先祖の供養に霊水を受けるほか、霊水は腐ることがないと重宝がられている出水が始まる5月は鹿島地区、7月盆の前は佐世保、有田地区、8月盆の前は白石平野一帯と参拝者に流れがあるのも往時のにぎわいぶりを伝えている。今は茶やコーヒーに最適とミネラルウォーターとしての人気がある霊水信仰は水不足に苦
しむ地方にみられるという説がある。白石平野は有明海が干陸化してできた。水道が普及するまでは飲み水は地下水に頼り、井戸でくみ上げた。日照りが続くと井戸の水は枯れたり、塩辛くなったりした混じり気のない真水に飢えた住民は山のわき水を敬い、霊的なものを感じたというのだ。水は生命の源という切実な思いが込められている。お堂の壁からちょろちょろと流れ出てくる出水はその思いを象徴しているようだ。それにしても今は水をぜいたくに使い過ぎている。

広報白石

平成24年3月号

平重盛の塔



平成19年7月号

観音堂前灯籠

 天保11年(1840)の制作で三段基壇の上に立つ、高さが4m近くもある堂々たるものです。特徴的なのは、頂上の宝珠(頭がとがった玉形で、炎が燃え上がっている様を表している)の代わりに玉をくわえ蹲踞した阿形の小型唐獅子が乗っていることです。基礎に「西山儀之助」以下21名の「若者中」の名前と「石工 當村 西山徳兵ヱ 塩田 筒井伊右衛門」と刻まれていますが、「當(当)村」というのは「堤村」のことで、地元の石工西山氏と塩田の石工筒井氏との共同制作ということになります。これと同じ組み合わせによる制作と考えられる例が他にもあります。
 この灯籠の左側に、逆立ちした唐獅子が宝珠の代わりとなっている灯籠があります。文化13年(1816)に「丸田曾十」なる人物が願主となって寄進したものです。前記の灯籠より24年前の制作ですが、その意匠や高さなど共通する部分が多く見られます。と言うよりも前記の天保11年銘の灯籠はこの文化13年銘の灯籠を真似て制作されたもののように思われます。
 おそらく、文化13年に宝珠の代わりに唐獅子が乗る灯籠一対が「丸田曾十」により観音堂前に寄進され、右側の灯籠が破損したか何なの理由で、天保11年に左側の灯籠とほぼ同様なものを新たに制作し直したと考えられます。それにしてもなぜ宝珠の代わりに唐獅子なのでしょうか。

平成10年12月号

ふるさと歴史探訪ー太田心海先生ー

平井氏といえば、龍造寺隆信に滅ぼされた高城の城主、平井経治のことがよく知られている。平井一族の墓と言い伝えられている寿墓(生前に立てた墓碑)も陽興寺の須古鍋島家御霊屋の北側にある。経治について、江戸時代に記された『水堂観世音霊水縁起』には、次のようにある。「応仁の乱の頃に至り天下不穏、乱軍の世となり兵火にかかり殆ど烏有に帰しぬ。降って天正年間(1573〜1591)、領主平井経治此の霊地を空しく荒廃に委するを嘆き安福寺を建立し、尚、他の堂宇をも修復中、龍造寺隆信の攻むる処となり、敗戦して水堂越えをなし、人村に落ち行く途次、火を放って悉く之を焼き払ひしぞ口惜しけれ」このように、経治は水堂安福寺復興の功労を認められている反面で、自ら復興した安福寺を灰儘に帰した責めも負わされている。
平井氏については、逃げてきた一族が伝えたと言われている平戸市やその周辺の大島や鷹島などに伝わる須古踊が有名である。また、踊の形態は異なるが、大村市にも寿古踊があり、文明12年(1480)有馬純伊の時に肥前須古の者が教えたという。その頃には須古踊というものがあったのであろう。それを有名にしたのが、経治の伯父で歌道や連歌の達人であった新宗吟入道であった。平井氏が高城城主になったのは、経治の父、経則の
頃ではないかという説もあるが、実はもっと早く文明年間(1469〜1487)には既に須古・白石一帯を統治していたと思われる。それを裏付ける二つの証拠がある。一つは大分県国東町千光寺の阿弥陀如来坐像であるが、これはもと肥前国杵島郡北郷安福寺塔の本尊だったもので、永仁2年(1294)に製作されている。それを文明6年(1474)に修復した時の体内の銘文に「大旦那平井資世子息頼秀」とある。もう一つは、長崎県鷹島町住吉神社所蔵の大般若経600巻の内、第73巻の奥書である。これも本来、安福寺に寄進されたものである。その奥書にも「大旦那平井資世子息頼秀」とあり、日付は文明5年(1473)6月となっている。この頃、水堂安福寺の大復興事業が行われたことが分かる。そして、その願主が平井一族であったのである。
これらのことから、平井一族が中世白石の文化に大きな寄与をしたというのは、言い過ぎであろうか。

大正時代の参拝のしおり


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