平成29年の出水法要は
5月10日から9月5日までです

1300年前から現代へ

水堂境内

観音堂

水堂の境内の中で中心となるお堂です。
宝永4年(西暦1707年)に建立されました。屋根は葦葺き(よしぶき)で、戸は昔ながらの鎧戸(※1)です。
出水法要(※2)中に、参拝された信徒の方々が、各家のご先祖様の回向をされます。また、受付にて塔婆(※3)供養や経木塔婆を申し込まれ、霊水堂へお供えされます。

※1.鎧戸(よろいど)細長い薄い板を、透き間ができるように何枚も斜めに並べてとりつけた戸。日光の直射を防ぎ通風をよくする。
※2.出水法要(でみずほうよう)毎年旧暦4月15日(寅の刻:午前4時)から7月15日(未の刻:午後2時)の夏安居(げあんご)の時期です。
※3.塔婆(とうば)・仏舎利を安置し、供養するために建てる塔。・死者を弔うために墓のうしろに立てる、塔の形をかたどった薄くて細長い板。板塔婆イタトウバ。=卒塔婆ソトウバ。
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霊水堂

本尊は聖観世音菩薩です。観世音菩薩を中心に左右に三体づつ、六地蔵が安置されています。
観世音菩薩の下より、霊水が出ます。この霊水を求めて期間中は佐賀・長崎・福岡より信者の方々がお参りされます。期間中3万人から4万人の方が来られます。六地蔵(※1)の前に新しい仏様の戒名や先祖代々を塔婆に書き、お供えされます。
霊水は持ち帰って仏壇にお供えしたり、薬を飲むときやごはんの中に入れたりして、無病息災を祈ります。この霊水は何年過ぎても腐らないといわれています。

※1.衆生シユジヨウがこの世で行ったそれぞれの行為のむくいとして、死後住まなければならない六つの世界。地獄・餓鬼ガキ・畜生・修羅シユラ・人間・天上の 六つの世界お地蔵様

薬師堂

このお堂は戦前まで佐賀市内の谷口鉄工所の菩提所(仏壇)としてお参りされていました。戦後維持管理が難しくなり、水堂へ寄進されました。彫刻は寺院のお堂とは違い、細かい細工が施されています。すべて、台湾檜の木材を使用されています。
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平重盛の塔

石垣で囲まれた土壇に立つ全高2.3mの宝塔。
円形の塔身の四方に金剛界の梵字(東-阿シュク如来、西-阿弥陀如来、南-宝生如来、
北-不空成就如来)を記し、基壇には「元応元年(1319)7月吉日」の銘があります。安政3年(1856)に描かれた「杵島郡須古郷図」には、この宝塔が「平重盛石碑」と記されています。
この宝塔がいつ頃から「重盛の塔」と呼ばれるようになったのかは不明ですが、同じ安政3年の『水堂霊水略縁起』に記載されているように、「霊水」と関係の深い平重盛(平清盛の長男)に対する敬慕の念や平重盛が水堂安福寺の「中興開基」と伝えられていることと関係が深いといわれています。
町内には他を見ない鎌倉時代の石造物の傑作であり、水堂安福寺の歴史を物語る遺物の一つです。



松尾芭蕉の句碑

「老の名のありとも知らで四十雀」明治16年に須古俳壇によって建てられました。












厄除け不動の滝

滝の左に不動明王が安置されています。
夏場になると、不動明王の信者の方々が身体健全・無病息災・願成就のために滝に打たれる荒行を厳修されます。







十六羅漢

1789年建立。
建立時は、本坊安福寺からの参道沿いにありました。しかし近年の車社会にて、車道が出来て参道を歩いてお参りされる方が少なく、昭和38年に現在の場所へ集められました。


合掌観音立像

昭和40年建立。
地元の白石平野の土地改良事業の成就のために白石町によって建てられました。現在では農作物の豊作を祈願し、風雨順時等を祈る観音様として親しまれています。

安福寺

本堂

水堂安福寺の中心となる本堂です。昔は念仏堂と呼ばれていました。昭和33年の建立です






本堂前庭園

平成9年12月に完成した庭園です。
当山で一番新しいものです。自然石を配置し、樹木はつつじともみじのみで、白い御影石を全面におき、シンプルなイメージです。
中心のほとけさまは、「三界萬霊」の菩提を祈る阿弥陀如来です。
江戸時代後期の作で、参道(石段)の登り口にあったものを
移動しました。左の塔は同じく江戸時代後期の昨です。

由来

水堂開山

霊水略縁記によりますと、「奈良時代の聖武天皇の頃(西暦725年)に、ある日のこと、一匹の白鹿を見つけ、射止めたところ、鹿は金色の光りを放って消え失せました。猟師は不思議なこともあるものだと思いながら、その姿を消した跡を探しますと、不思議は更に不思議を生んだのであります。今猟師が放った矢は見事石の観音様に突き立っていたのです。『ああ、殺生の恐ろしさ』とばかり、この様子を見た猟師は今までの行いを悔い改め、名を法弓と改め、そこに安福寺を建立して、それ以来強い念仏三昧の行者となって、ここに水堂開山の前提を作ったのであります。

高倉天皇との縁

その後平安時代(西暦1170年)高倉天皇が御病気を召されたとき、ある夜のこと、『九州肥前の国日輪山中に霊水あり、それを服すれば病もたちまち平癒あらさんか』と夢の中で観音様のお告げがありました。さっそく、この頃杵島の領主小松内大臣平重盛公に命じられたのです。重盛公は直ちに人を遣わし、その霊水を高倉天皇に献じたところ、不思議にも御病気が御平癒されたので大変感心になったそうです。

最盛期

そこで、天皇の命令で、水堂安福寺に七堂伽藍(七つの大きいお堂)六十六坊(六十六のお堂)を日輪山の中腹から麓に建立され、ここに水堂安福寺の霊場は完備したのです。

戦乱の災い

天正2年(西暦1574年)正月須古合戦の最後に、竜造寺隆信は平井経治の行方を探す為、やむなくこの由緒ある建物の大部分を焼き払ったのであります。

復興そして現在

しかし信者はその後も依然として年々増加するのみで、宝永4年(西暦1707年)には鍋島茂明の力添えによって、本堂その他が再建されたのであります。以後これを修築してきたのですが、昭和二十六年九月に火災により安福寺本堂庫裡を消失しましたが、檀信徒並びに有志の御協力によって完成を致しました。水堂に詣でる人々は塔婆を供え、或いは回向を頼まれ、新しい仏ばかりでなく、ご先祖の供養をし、水まつりをして、霊水を受けてかえられるのであります。

境内配置図